江戸時代、小判は頻繁に改鋳されました。貨幣の品位を低下させることによって幕府に莫大な利益をもたらしたからです。幕府が初めて政策的に小判を改鋳、つまり、金の含有量を減らしたのは、五代将軍綱吉の時代、1695年のことです。悪名高い勘定奉行萩原重秀がその任に当たりました。
当時、幕府は家康が懸命に蓄えた金銀を使い果たし、極度の財政難にあえいでいました。萩原は、改鋳後も改鋳前と同じ額面で小判などを流通させていました。そこで幕府は「出目」といわれる莫大な利益を手に入れました。その額は500万両と言われています。
荻原はまず、慶長大判の流通を禁止し(といっても実際はほとんど流通していなかったが)、元禄大判を鋳造します。品位は53%。慶長大判が68.4%だったので金の比率は慶長大判の77%となります。
次に元禄小判を造りました。品位が57.4%で、1393万6220両造られました。この小判(一分金.二分金を含む)は江戸時代鋳造された小判では最も多く造られました。ちなみに小判だけではなく、銀貨でも同じようなことが行われました。
通貨の供給量が増えたことにより、関西では混乱しましたが、関東では江戸中心にミニバブルが発生、景気は総じてよかったようです。作家堺屋太一は昭和の好景気の時を“昭和元禄”という言葉が造られましたが、それはこの元禄時代の好景気にあやかったものです。