江戸時代、コメの先物取引が世界で初めて大坂は堂島で行われましたが、「金の先物取引」も行われていました。当時、「大坂の銀遣い、江戸の金遣い」といわれていました。
大坂では銀が、江戸では金が主に流通していたからです。呼び名も大坂は貫、江戸は両といいました。大坂、江戸の間では為替による交換があり、別に金銀を持ち運びする必要はありませんでしたが、金と銀を両替する通貨交換所も発達していました。金銀の価格の比率は幕府が定めたものの、経済の実態に応じて異なるため、その取引も行われるようになったからです。
寛保3年(1743年)大坂・北浜に金相場会所が儲けられ、正月三が日と五節句を除いては毎日午前10時から1~2時間、開かれていました。取引時間中はいつでも取引できるので「ザラバ取引」と言われていました。これは現在、世界の先物取引で行われている方法で、日本は先物取引の元祖ともいえます。
立会時間を過ぎると拍子木を打って終了を知らせ、それでも終わらない時は水をかけ「水入り」と呼びました。(余談だが、相撲の「水入り」はここから来ています。)取引単位は100両以上。これをみても、当時の商人の財力のほどがうかがわれます。
有名な大商人越後屋、鴻池も両替商を営んでいました。両替商というと、時代劇では大金持ちの悪徳商人として画かれていることが多いですが、実際は経済の潤滑油としてなくてはならない存在だったのです。