江戸時代に広く使われていた小判。それを「クーバン」と呼んだ場所があった。といっても日本ではなくバタビヤ(今のジャカルタ)での話。現地では日本の小判のことを「クーバン」と呼んでいたのだ。
江戸時代初期、日本は生糸などを輸入、銀を中心に金、銅なども輸出していた。この金の小判がオランダの東インド会社などの手で東南アジアやインドなどに流れ、そこで利用され、小判という言葉がそのまま使われた。ところが、現地では、その通りには発言できず、小判に似たクーバンという言葉として通用してしまったのだ。
バタビヤではクーバンは当然、交換手段として利用されていた。当時、インドネシアはおらんだの植民地になっていたが、母国オランダとの為替手形の買い取り手段としても使われていた。さらにインドまで渡って、そこで潰され、インドの金貨、パゴダ金貨に鋳造し直されることもあった。
かつて、日本は中国から宋銭、明銭を輸入、それを国内の交換手段として利用したことがあったが、これも宋や明が国として信用されたこその話。小判が国外で流通したのは日本の貨幣が品質面で安定し、高い信用を博していたことの証ともいえよう。当時の日本の金の鋳造技術はそれほどに高く、同時に徳川幕府がそれほどに小判の品質に意地に力を入れていたのだ。