好景気に沸いた元禄時代の後を受け、6代将軍家綱の時代に幕政を牛耳ったのが新井白石である。彼はこう考えた。「五代将軍綱代の時代に金貨の改鋳を行って幕府は約500万両の利益を得たが、この改鋳による品位低下がインフレを招き、庶民の生活を圧迫した」。
そこで、白石は逆に、貨幣の品位を高める策を取った。彼は中国で流行した「金の品位を高めれば経済は安定する」という神秘的な考えを信奉しており、その考えに則り、宝永7年(1710年)「乾」と命名した小判を発行した。。
「乾」は八卦の初めの卦で、「強い」を意味している。それまで、貨幣は「慶長」、「元禄」など発行した年の年号をとって命名されていたが、この「乾字金」だけは例外的な名称になっている。
「乾」の金の含有率は慶長小判と同じだが、重さは9.4グラムと半分強だった。しかし、価格を慶長小判100両に対して120両とした。そこで、金の含有量が多い慶長小判は大幅に割高になるので、みな、壺の中に隠したようで、市中から姿を消した。
「乾」小判の発行量はごく少なかったのだが、これで流動性は低下、景気を圧迫した。ところが白石はこれにこりず、「家宣の遺命である」として家継の時代の正徳4年(1714年)、また慶長小判と同じ品位、同じ重さの金貨「正徳小判」を発行、景気はさらに落ち込んだ。白石は「理念先行」で、経済についてはまるで無知だったのだ。