太平洋戦争末期の昭和19年2月、密かに東京からフィリピンに金貨が送られました。当時、フィリピンには山下奉文將軍率いる日本軍がおり、連合軍の攻撃に備えていました。「その戦いの軍資金として使おう」というものでした。
この時送られた量は50の梱包。全体で金貨が25,000枚あったといわれています。この金貨、物資の購入などのため各方面に配られましたが、バギオの日本軍の司令部には約30の梱包が残り、バギオが危なくなった時に別の場所へ移されたともいわれています。
ところが、その場所はまいまだ分かっていません。金貨がその後どうなったかも不明。
フィリピンでは、日本軍が大敗北した後、生き残った兵士が山奥深く逃れ、そのまま餓死した兵士も多かったといわれています。こんな状況では金貨の運命など分かるはずもないかもしれません。
戦後、一部が日本医によって持ち込まれ、「東京で換金された」との噂が流れました。これはかなり信憑性があるともいわれています。ただ全部ではなかったようで、残りはどうなったかも分かっていません。
政界の秘密工作に使われたとの説もあります。また、資金繰りに困った大企業に融資されたともいわれています。これが後にM資金とか山下兵団の財宝とかいわれているもので、21世紀に入っても、「M資金を融資する」という話が新聞紙上をにぎわしたこともあります。