中世、中国に宋という国があった。その宋を設立した太祖が亡くなり、第2代皇帝太宗が即位する時、「金匱の誓い」なるものが行われた。太祖が亡くなる直前、両者の母親である杜大后が太祖と股肱の臣趙晋を呼んで「どうしてお前が皇帝になれたのか」と尋ねた。太祖は「母上と先祖のお陰です」と答えた。
母は「それは違う。お前が皇帝になれたのはお前が仕えていた周の世宗の息子が若すぎたからだ」と説明。太祖の息子徳昭は当時7歳だったので、「皇帝には弟の光魏(=2代目の皇帝太宗)、次に下の弟廷美を皇帝にし、太祖の息子徳昭はその次にしなさい」と言った。
それを太祖が承諾すると、文章にして「金の匱(はこ)」に入れた。そこで、この誓いが「金匱の誓い」と呼ばれるようなった。だが、こんな約束など守られるわけがない。光魏は皇帝の座を廷美ではなく息子に受け継がせた。それだけではない。太祖の2人の息子は迫害され、徳昭は自殺し、もう1人は殺された。
この話は宋王朝の正史『本紀』には書かれず、『杜大后記』という本にしか記されていない。だが、このようなことは歴史を記する史官では書くことはできなかったのだろう。皇帝の座をめぐる親族間の争いは血を流すことが多い。宋もまた同様だった。太宗が子供に皇位を継がせたことで「金匱の誓い」はその後、行われなくなった。